「本願名号正定業 ... 必至滅度願成就」

本願名号正定業 至心信楽願為因

成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

 

・本願名号正定業

本願を形にされた名号を称える事は、正定の業であり(17願の通りにすることは正定聚の位に居すことであり、) ←ここで「17願」(大行)について記されている。または『行文類』について言われているとも見れる。

 

・至心信楽願為因

至心信楽の願を因となす。 ←ここで「18願」(大信)について記されている。または『信文類』について言われているとも見れる。

 ただ、この「18願」を「五願にひらく」とされると、「17・18・11・12・13願」と見ることもできる。よってこの箇所は「18願」とも「17・18・11・12・13願」とも見れる。

 

・成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

等覚に成らしめん「証大涅槃の願」とも称される「必至滅度の願」のまた成就する。

←ここでは「11願」について記されており、『証文類』についてとも見れるが、「11・12・13願」とした場合、『証文類』と『真仏土文類』についてとも見る事ができる。

 

余談

「至心信楽願為因」とは上記に既述したとおりだが、浅はかな人間には「疑心至心信楽願」と言うこころがある。ここよりだいぶ後のセンテンスとはなるが、

「決以疑情為所止」の中の「疑情」(疑いのこころ)である。

この「疑心至心信楽願」については『化身土文類』に記されている通りである。

 

おわりに

ここでは『行文類』『信文類』『証文類』『真仏土文類』(また、逆説的に『化身土文類』)について説かれた箇所である。

 この中に『教文類』はないのでは、と思うかもしれないが「大無量寿経」の「この願はこのようにいわれている」と議論している箇所なので、『教文類』は「大前提」として、含まれていて「今になって断りを入れる必要がない」ということである。

 よって、主著『教行証文類』が含まれている箇所とも見る事ができる。

質問トピック 20190803

こんばんわ、まだ数人ですがわたしのブログの読者になっていただいて誠にありがとうございます。

 

さて、こちらを読まれている方の中には、「この書物はどのような意味なのかたずねてみたい」と思われている方もいるかもしれません。ただ、現状そのベースとなる『正信偈』についても満足に記されておらず、読者の方にはご不便をかけている次第であります。

 

 そこで、このトピックを「仮の質問箱」として、ここに立てます。

私もまだまだ研鑽の身でありますから、こたえられる範疇は狭いかとは思いますが、答えていきたいと思います。

 

 皆さま、どうぞよろしくお願いします。

 

帰命尽十方無碍光如来

 龍教房

 

追記

「リンク」にも埋め込んでおきました。これで、記事が流れてしまっても大丈夫(と思いたい)です。

「普放無量無辺光 … 一切群生蒙光照」

普放無量光 無辺光 無礙光

無対光 光炎王 清浄光

歓喜光 智慧光 不断光

難思光 無称光 超日月光

 

塵刹(じんせつ:「チリの数ほどある世界」 転じて 「数えきれない世界」)を照らし 一切群生を光明のうちに照し蒙る

 

上の光明(こうみょう:お力、お働き、おいわれ)はまとめて「十二光仏」とも言われるお働きである。 親鸞は『弥陀如来名号徳』という書物に1つ1つのおいわれを記されたが、この書物は完全な形では残されていない。

 

親鸞 『弥陀如来名号徳』

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%90%8D%E5%8F%B7%E5%BE%B3

 

親鸞は 『お手紙』 では次のようにいわれている。

 「ひとびとの仰せられて候ふ十二光仏の御ことのやう、書きしるしてくだしまゐらせ候ふ。くはしく書きまゐらせ候ふべきやうも候はず。おろおろ書きしるして候ふ。

 

詮ずるところは、無碍光仏と申しまゐらせ候ふことを本とせさせたまふべく候ふ。無碍光仏は、よろづのもののあさましきわるきことにはさはりなくたすけさせたまはん料に、無碍光仏と申すとしらせたまふべく候ふ。あなかしこ、 あなかしこ。

   十月二十一日           親鸞

  唯信御坊 御返事 」

 

そもそもの『大経』には「十二光のいわれ」について次のように記されている。

『大経』

 「仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。
あるいは仏光ありて、百仏世界あるいは千仏世界を照らす。要を取りてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし。あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとくうたた倍して、乃至、一仏刹土を照らす。

 

このゆゑに無量寿をば、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。

それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし。寿終りてののちに、みな解脱を蒙る。 無量寿仏の光明は顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀したまふに、聞えざることなし。 ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉すること、またまたかくのごとし。もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得て、もろもろの菩薩・声聞・大衆のために、ともに歎誉してその功徳を称せられん。それしかうしてのち、仏道を得るときに至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を歎められんこと、またいまのごとくならん」と。 仏のたまはく、「われ、無量寿仏の光明の威神、巍々殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」と。

」とございます。

 

この中には、「ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉すること、またまたかくのごとし。」とあることより、この「称する」は「称賛する」の意味であるから、17願と見ることができる。

 

17願は「諸仏称名の願」といわれますが、この「称名」は「称名(名をとなえる)」という意味ももちろんあるが、「称名(名をたたえる))」の意味もあります。そのため「諸仏称揚の願」とも呼ばれます。

「法蔵菩薩因位時 … 重誓名声聞十方」

法蔵菩薩因位の時 世自在王仏の所に在りて

諸仏浄土因を覩見せられ (各々の)国土における人天の善悪を見られた。

そして、無上殊勝願を建立せられ 希有大弘誓を(普く)超発せられた。

五劫の間、考えをめぐらし(思惟)て落ち着かれ(摂受) 阿弥陀仏の御誓いと御名を(重誓名声)十方に聞かしむる。

 

→この箇所は、阿弥陀さまが法蔵菩薩の時に、「重誓」を誓われた(無上殊勝願を建立せられた)箇所である。

 

ここに「重誓名声聞十方」(阿弥陀仏の御誓いと御名を(重誓名声)十方に聞かしむる)とあることより、「誓(信心)と名(念仏、称名)」と2つ記されているが、この2つは「同一の南無阿弥陀仏である」といわれている。

 

親鸞の『お手紙』には、

 

 「 誓願・名号同一の事

 

 御文くはしくうけたまはり候ひぬ。さては、この御不審しかるべしともおぼえず候ふ。そのゆゑは、誓願・名号と申してかはりたること候はず。誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。かく申し候ふも、はからひにて候ふなり。ただ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなへつるうへは、なんでふわがはからひをいたすべき。ききわけ、しりわくるなどわづらはしくは仰せられ候ふやらん。これみなひがことにて候ふなり。ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候ふ。往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。あなかしこ、あなか しこ。

 

 ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

 

   五月五日             親鸞

 

 とあり、「誓願・名号と申してかはりたること候はず。誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。」と言われている。

 

 また、「誓:誓願を不思議と信じ:大信」 、 「名:名号を不思議と一念信じとなへつる:大行」 とした場合、「大行をはなれたる大信はなく、大信をはなれたる大行もない」となる。

 

このことから、別の『御手紙』には、

 「四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんなり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

 

 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 いのち候はば、かならずかならずのぼらせたまふべし。

 

   五月二十八日           (花押)

 

  覚信御房 御返事

 

 専信坊、京ちかくなられて候ふこそ、たのもしうおぼえ候へ。また、御こころざしの銭三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候ふ。

 

 [「建長八歳丙辰五月二十八日親鸞聖人御返事」]」

 

 と「信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。」が、

先述した、「誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。

 誓願・名号と申してかはりたること候はず。」に意を同じくしている。

 

 また、「往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。」からは、

自然法爾の事』という『御手紙』があげられるだろうし、『歎異抄』第8もあげられるだろう。

 「自然法の事

 

 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。

 

 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 

 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

 

   正嘉二年十二月十四日               愚禿親鸞八十六歳」

 

歎異抄』第八

 「一 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。」

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無せよ」

 

この一行 二句が「真宗」を顕しているのだが、一瞥したものからすると

「なぜ、これが真宗を顕しているのか」と思うのも無理はない。

 

これについて一つ記していきたいと思う。

まず、ここにある「無量寿如来」及び「不可思議光如来」とは「阿弥陀さま」の別号である。

 

無量寿」とはサンスクリット語「アミダーユス」の意訳で、「量り無きいのち」と訳されることもある。今でこそ「西方浄土」の教えが広まっており「阿弥陀さま」と説明してすぐに関連づけられるが、「西方浄土」思想が広まる前までは、「無量寿院」として、阿弥陀さまを安置していた歴史がある。その流れから、大変私ごととはなるが、「無量寿院」という院号や、「無量寿寺」という寺号がある。(近所にも「無量寺町」という町名がある

 

「不可思議光」とは「たとえようも無いおはたらき」と言う意味で、同じ意味では「無称光」などもある。こちらの場合は「えようも明(おちから)」と読み解くことができる。

 

「不可思議光」については曇鸞大師が力を尽くされており、

浄土論註』には

 

「問ひていはく、天親菩薩の回向の章のなかに、「普共諸衆生 往生安楽国」といへるは、これはなんらの衆生とともにと指すや。

答へていはく、王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、「仏、阿難に告げたまはく、〈十方恒河沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを称嘆したまふ。 諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、すなはち一念に至るまで心を至して回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て、不退転に 住せん。ただ五逆と誹謗正法とを除く〉」と。これを案じていふに、一切の外道・凡夫人、みな往生を得ん。

また『観無量寿経』のごときは九品の往生あり。 「下下品の生とは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごとき愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕して、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごとき愚人、命終の時に臨みて、善知識、種々に安慰して、ために妙法を説き教へて念仏せしむるに遇はん。 かの人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げていはく、〈なんぢもし念ずることあたはずは無量寿仏と称すべし〉と。かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿仏〉と称せん。 仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除き、命終の後に金蓮華のなほ日輪のごとくしてその人の前に住するを見、一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生を得ん。」 と顕され、

「善友告げていはく、〈なんぢもし念ずることあたはずは無量寿仏と称すべし〉と。かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿仏〉と称せん。 仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除き、命終の後に金蓮華のなほ日輪のごとくしてその人の前に住するを見、」 より、

 

「〈南無無量寿仏〉と称する教え」であることがわかる。

 

なお、「南無」はサンスクリット語「ナマス」の音写であり、「帰命」は「南無」の意訳である。

『尊号真像銘文』には、

「「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。」とも示されている。

 

『正信念仏偈』について(初めに)

正信念仏偈』(『正信偈』)とは、『顕浄土真実教行証文類』の『行巻』巻末にある偈文である。 真宗では「朝晩のお勤め」としてあげられるため、馴染みのある方もおられるかと思う。

 

同様の形式をとられているものとして『念仏正信偈』(『文類偈』)という偈文もあるが、この書物との対応についてはひとまず『正信偈』が記し終わってからとする。

 

また、「七高僧が伝えられたこと」を顕す文章については『浄土高僧和讃』(『高僧和讃』)もあるが、こちらも『正信偈』が記し終わってからとする。

ブログ作ってみました。

こんばんわ、Abcです。(おそるおそるブログ釣ってみたはいいけど「最初の言葉」はかえないという体たらく

 

満を持してブログを立ち上げましたが、まだ右も左もわからないので、「なんだかなー」な感じです。 ひとまず『正信偈』(正信念仏偈)から始めてみようかなと思っています。