『大経』巻下 について ~聖人の著作よりうかがう~
お久しぶりです、龍教房です。
あまり更新されなさ過ぎて、蜘蛛の巣などは貼っていますがそれを取り除く意も込めて更新させていただきます。
と言いますのも、
伊藤康善著『安心調べ』P142~P143
「大経には称南無阿弥陀仏の文は一ヶ所もない。願成就にも称名はない。」
等と言われているようですので、「大経には称南無阿弥陀仏の文しかない」と説かせていただく久々の更新となります。
『大経』巻下
「仏、阿難に告げたまはく、
「それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。
十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く」と。{乃至云々}」
「{前略}往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。
真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」[文]
真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」[文]
真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」[文]
これらの本誓悲願を、選択本願と申すなり。
この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。{乃至云々}」
『大経』での「それ衆生ありてかの国に生るるもの、みなことごとく正定の聚に住す」は、『第十一成就文』と呼ばれるものであるから、『二種廻向』での「真実証果」にあたる。また、「真実証果」なのだから、『第四巻』(『証文類』)のいわれであることは言うまでもない。
同じ論法にて、
「無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ」ー「真実の行業」ー『第二巻』(『行文類』)
「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。」ー「真実信心」ー『第三巻』(『信文類』本末)
と示すことが出来よう。ここで『第一巻』(『教文類』)がないが、
『第一巻』は「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」なのであるから、「弥陀四十八の誓い」つまり『大経』巻上にあたる。
さて、続けようか。
『大経』
「{前略}無量寿仏の威神極まりなし。十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称歎せざることなし。
東方恒沙仏国の無量無数の諸菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養して、もろもろの菩薩・声聞の大衆に及ぼさん。経法を聴受し、道化を宣布す。{乃至云々}」
「{前略}
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
{乃至云々}」
場合によっては、この直後の「普放無量無辺光 ー」のくだりも記すこともあるが、いづれも「かれ(二字:彼の如来)を称歎せざることなし」のいわれである。
『大経』
「{前略}慧日、世間を照らして、生死の雲を消除したまふ{乃至云々}」
親鸞聖人『顕浄土真実教行証文類 序』(『総序』)
「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。{乃至云々}」
「{前略}
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
{乃至云々}」
親鸞聖人『第三』本(『信文類』本)
「{前略}『論の註』(下 一〇三)にいはく、「〈かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉(浄土論)といへり。
〈称彼如来名〉といふは、いはく無碍光如来の名を称するなり。
〈如彼如来光明智相〉といふは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。{乃至云々}」
『大経』にて「慧日、生死の雲を消除したまふ」とされているところを「無明の闇を破する恵日」「よく十方衆生の無明の黒闇を除く」と親鸞聖人は表現されている。または「即横超截五悪趣(すなはち、横さまに五悪趣(六道)を截つ(たつ:断つに同じ))」ともされている。
『大経』
「菩薩、至願を興して、おのれが国も異なることなからんと願ふ。
あまねく一切を度せんと念じ、名、顕れて十方に達せん。
億の如来に奉事するに、飛化してもろもろの刹に遍じ、恭敬し歓喜して去り、還りて安養国に到る。」
「浄土の大菩提心は 願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心を 度衆生心となづけたり」
「菩薩、至願を興して、おのれが国も異なることなからんと願ふ。」のいわれは、「世尊我一心、帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国」(天親菩薩『願生偈』廻向文)なども思わせていただくように、この「おのれが国も異なることなからんと願ふ」ということも「南無阿弥陀仏」のいわれである。これは、三心の一つ「廻向発願心」にあたる。
『大経』
「{前略}かの仏国に生るるもろもろの菩薩等は、{乃至}彼なく我なく、競なく訟なし。もろもろの衆生において大慈悲饒益の心を得たり。柔軟調伏にして忿恨の心なく、離蓋清浄にして厭怠の心なし。等心・勝心・深心・定心、愛法・楽法・喜法の心のみなり。もろもろの煩悩を滅して悪趣の心を離る。{乃至云々}」
「大慈悲饒益の心を得」というのは、平たく言うと「南無阿弥陀仏」である。「南無阿弥陀仏の法」によって「南無阿弥陀仏」を得るのは至極当然であり、「大慈悲=阿弥陀」「饒益=他を利益(教化利益)する」のいわれで「阿弥陀(の法)を以て他を教化利益することを得」といういわれである。「自信教人信」の「教人信」にあたる。
また、「悪趣の心を離る」は、先の「即横超截五悪趣」である。委しくは見返していただきたい。
『大経』の「なほ、~~のごとし」は、『第二』の「なほ、~~のごとし」を思い起こされるが、どちらも「「南無阿弥陀仏」のいわれをたとえられたもの」である。よくよくお読みいただきたい。「慧日を曜かし、痴闇を除く」(『大経』)も先の「よく十方衆生の無明の黒闇を除く」(親鸞聖人)のいわれである。
『大経』
「{前略}因力・縁力・意力・願力・方便の力・常力・善力・定力・慧力・多聞の力、施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧の力、正念・正観・もろもろの通明の力、法のごとくもろもろの衆生を調伏する力、かくのごときらの力、一切具足せり。{乃至云々}」
このいわれは、「称ー南無阿弥陀仏の法(称仏名の法)」には、「かくのごときらの力、一切具足せり」のいわれである。どこかの団体は、「1,聴聞 2,おつとめ 3,六度万行」などと順位をつけているが、「聴聞(法話)」とは、「称ー南無阿弥陀仏」のいわれをたづねさせていただく縁なのですから、「称ー南無阿弥陀仏(南無阿弥陀仏と称えさせていただくこと)」つまり「念仏成仏」が「真宗」をされるのです。
「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ」
『大経』
「{前略}われなんぢら天・人の類を哀れみて、苦心に誨喩し、教へて善を修せしむ。器に随ひて開導し、経法を授与するに承用せざることなし。意の所願にありてみな道を得しむ。{乃至云々}」
親鸞聖人『第二』(『行文類』)
「ここをもつて『論の註』(論註下 一二〇)にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。」
「意の所願にありてみな道を得しむ。」=「同一に念仏して別の道なきがゆゑに」にあたる。「意の所願」を「仏意」ともいわれるが如く、「南無阿弥陀仏のいわれを心苦しく(何とか伝えようと)喩えを用いて、誨へ(をしへ:教え 教誨 におなじ)ている」とされる。直後、「善を修せしむ」と「修善」の文字があるが、親鸞聖人が伝えられている「同一念仏無別道故」が「教え」ののであるから、「称ー南無阿弥陀仏」となりそれが、「往相廻向」のいわれになるのである。
『大経』
「{前略}そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。
もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。{乃至云々}」
親鸞聖人『第六巻』
「また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。{乃至}(『無量寿如来会』にいはく)仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、華胎のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとしと。{乃至云々}」
「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」
そのように顕わされ、その解決策として、
親鸞聖人『第六巻』本
「{前略}しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。{乃至云々}」
と説かれ、
親鸞聖人『唯信抄文意』
「{前略}
ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。{乃至云々}」
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり
と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと」
『大経』
「{前略}もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し、持誦し、説行すべし{乃至云々}」
親鸞聖人『第二巻』(『行文類』)
「{前略}いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。{乃至云々}」
『大経』での「まさに専心に信受し、持誦し、説行すべし」は、『第二』では「仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。」とされている。どちらも「南無阿弥陀仏をつのりとし、南無阿弥陀仏を称えよ」であることは、いうまでもない。
源空聖人『擇集』にいはく、
「{前略}南無阿弥陀仏[往生の業には、念仏を先(本)となす。]{乃至}
ゆゑに知りぬ、念仏また九品に通ずべしといふことを。二には『観経』の意、初め広く定散の行を説きて、あまねく衆機に逗ず。後には定散二善を廃して、念仏一行に帰す。いはゆる「汝好持是語」等の文これなり。その義下につぶさに述ぶるがごとし。ゆゑに知りぬ、九品の行はただ念仏にありといふことを。{乃至云々}」
また、親鸞聖人『銘文』にいはく、
「{前略}『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。{乃至云々}」
長文、失礼。
なもあみだ、なもあみだ
龍教房
質問トピックより 「浄土真宗の行というのは、なんですか?善の意味も教えてください。」について
(あなぐま さん)
ご質問ありがとうございます。
「真宗の行」とは何ですか? という問いには「称名念仏」です とお答えいたします。
ただ、「称名念仏」には、「自力」「他力」があり、「自力の称名念仏」「他力の称名念仏」となります。
質問トピックより 「龍樹菩薩が、有無の見を悉く摧破されたとあるが、浄土の教えとどのような関係があるのか?」について
(id:carsa_j さん)
>龍樹菩薩が、有無の見を悉く摧破されたとありますが、浄土の教えとどのような関係があるのでしょうか?
蓮如上人は『正信偈大意』にて「よく有無の邪見を破して、」としか記してありません。
この箇所は仰られるように「有無の見を悉く摧破された」です。この語句の説明のほうがよろしいかもしれませんね。
まず、
「有見(うけん)」とは「常見(じょうけん)」ともいわれ、「そのものの実在に固着する考え方」です。
そして、対する
「無見(むけん)」とは「断見(だんけん)」ともいわれ、「ものごとをすべて「虚無」であるとする考え方」です。
これら、「そのものの実在に固着する考え方」も「ものごとをすべて「虚無」であるとする考え方」も「行者によるおん計らい」でありますから「自力の計らい」とされ、「全分他力」の法義である「南無阿弥陀仏」の前には「ひるがえすべきもの」でしかありません。
親鸞聖人は『お手紙』にて(「有念・無念」とありますが、「心にて想うこと」を指していますので「有見・無見」と窺うこともできます)
「 選択本願は(聖道の)有念にあらず、(聖道の)無念にあらず。有念はすなはち色形をおもふにつきていふことなり。無念といふは、形をこころにかけず、色をこころにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
浄土宗にまた有念あり、無念あり。有念は散善の義、無念は定善の義なり。
浄土の無念は聖道の無念には似ず、またこの聖道の無念のなかにまた有念あり、よくよくとふべし。
浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。方便仮門のなかにまた大小・権実の教あり」
とございます。詮ずる所としまして
「浄土真宗は大乗のなかの至極であり、選択本願である。
選択本願は有念(有見)ではなく、無念(無見)でもない。
しかし、「浄土宗における有念、無念」として「有念は散善の義、無念は定善の義なり」とあるが、
「行者におきては、非善・非行なり」(『歎異抄』より)とのことより、「翻すべき事柄」である。
選択本願とは、大聖(源空)の仰せには「義なきをもつて義とす」と言われている。
これら、
「行者におきては、非善・非行なり」(『歎異抄』第八より)
「念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候」(『歎異抄』第十より)
」
といわれる「自然のうち(阿弥陀さまのお働き)」でありますから「行者におきては、非善・非行なり」や「不回向の行」などともいわれます。
この「選択本願は有念(有見)ではなく、無念(無見)でもない。」といわれることを
『正信偈』には、仰られるように「龍樹菩薩が、有無の見を悉く摧破された」と顕わされております。
よくよく尋ねられてください。
なもあみだ、なもあみだ
龍教房
質問トピック 20200618
こんばんわ、龍教房です。
こちらを読まれている方の中には、「この書物はどのような意味なのかたずねてみたい」と思われている方もいるかもしれません。ただ、現状そのベースとなる『正信偈』についても満足に記されておらず、読者の方にはご不便をかけている次第であります。
そこで、このトピックを「仮の質問箱2」として、ここに立てます。
私もまだまだ研鑽の身でありますから、こたえられる範疇は狭いかとは思いますが、答えていきたいと思います。
皆さま、どうぞよろしくお願いします。
なもあみだ、なもあみだ
龍教房
備忘録 #1 「称える」について
お久しぶりです、龍教房です。
久々なので、更新できるのか心配になっています。
さて、山も山さんさんの「親鸞会を脱会した人(したい人)へ」にて
「七高僧と親鸞聖人」が「称える」について示しましたので、こちらにも「備忘録」として記しておきます。
(引用元として山も山さんのサイトも挙げておきます)
ーーー
『正信偈』の
「万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」として「円満徳号勧専称」を勧められている所ですが、
他には『選択集』の
「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」
と「すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」や
『往生要集 上巻』の
「もしただ名を聞くものは黒闇処に堕ちず。 一念も名を称するものは、千二百劫の生死の罪を除却す。 帰依することあるものは、無上道において不退転を得。 」とあり、称名について説かれており
『往生礼讃』には、
「いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。」と「真実の信心」について説かれています。
『観経四帖疏』には、
「「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。
「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。」と「二河白道譬喩」の解説を
『安楽集』に
「もし聖を去ることすでに遠ければ、すなはち後のもの名を称するはこれ正にして、前のものはこれ兼なり。 なんの意ぞしかるとならば、まことに衆生、聖を去ること遥遠にして、機解浮浅暗鈍なるによるがゆゑなり。」とあり
『選択集』の
「おほよそこの『集』(安楽集)のなかに聖道・浄土の二門を立つる意は、聖道を捨てて浄土門に入らしめんがためなり。これにつきて二の由あり。一には大聖(釈尊)を去れること遥遠なるに由る。」とこの『安楽集』の解説をされております。
『論註』 『観経』引用解説箇所
「善友告げていはく、〈なんぢもし念ずることあたはずは無量寿仏と称すべし〉と。かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿仏〉と称せん。 仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除き、命終の後に金蓮華のなほ日輪のごとくしてその人の前に住するを見、一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生を得ん。」といわれ
『浄土論』には
「いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。いかんが作願する。心につねに願を作し、一心にもつぱら畢竟じて安楽国土に往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり。{乃至}
いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとする(「得んとする」を全分他力に立脚され「得たまへる」とせられた)がゆゑなり。」
『十住毘婆沙論』には
「もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、恭敬心をもつて、執持して名号を称すべしと」といわれ、これは
『和讃』
「不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな
恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」
といわれているところである。
詮ずる所
『正信偈』:「円満徳号勧専称」
『選択集』:「正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」
『往生要集 上巻』:「一念も名を称するものは、千二百劫の生死の罪を除却す。 帰依することあるものは、無上道において不退転を得」
『往生礼讃』:「弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし」
『観経四帖疏』:「弥陀の願意に喩ふ」と言われているが、「わが名を称えよ」という弥陀の願意である。
『安楽集』:「後のもの名を称するはこれ正にして、前のものはこれ兼なり。 なんの意ぞしかるとならば、まことに衆生、聖を去ること遥遠にして、機解浮浅暗鈍なるによるがゆゑなり」
→『安楽集』の解説としての『選択集』
「一には大聖(釈尊)を去れること遥遠なるに由る」とある。
「聖道・浄土の二門を立つる意は、聖道を捨てて浄土門に入らしめんがためなり」は『正信偈』の「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」とあるところである。
『論註』 『観経』引用:「なんぢもし念ずることあたはずは無量寿仏と称すべし」
『浄土論』:「いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。いかんが作願する。心につねに願を作し、一心にもつぱら畢竟じて安楽国土に往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり」
『十住毘婆沙論』:「もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、恭敬心をもつて、執持して名号を称すべしと」
→『十住毘婆沙論』の解説としての『浄土高僧和讃』
「不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」
です。すべて「勧専称、仏名を称する、名を称するもの、名号を称すること、弥陀の願意、名を称するはこれ正にす、無量寿仏と称すべし、如来の名を称する、恭敬心をもつて執持して名号を称すべし」と言われております。
ーーー
です。お手元に「真宗聖典」がある方は『信文類』「二河のたとえ」や『観経』、『和讃』、『おつとめ』などでご確認できるかと思います。
引用元:「親鸞会を脱会した人(したい人)へ」[ネタバレ]映画「歎異抄をひらく」の感想。令和の親鸞会講師部員の過去・現在・未来の自画像としての作品
https://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2020/06/08/202529
なもあみだ、なもあみだ
龍教房
質問トピック 20190803
こんばんわ、まだ数人ですがわたしのブログの読者になっていただいて誠にありがとうございます。
さて、こちらを読まれている方の中には、「この書物はどのような意味なのかたずねてみたい」と思われている方もいるかもしれません。ただ、現状そのベースとなる『正信偈』についても満足に記されておらず、読者の方にはご不便をかけている次第であります。
そこで、このトピックを「仮の質問箱」として、ここに立てます。
私もまだまだ研鑽の身でありますから、こたえられる範疇は狭いかとは思いますが、答えていきたいと思います。
皆さま、どうぞよろしくお願いします。
帰命尽十方無碍光如来
龍教房
追記
「リンク」にも埋め込んでおきました。これで、記事が流れてしまっても大丈夫(と思いたい)です。