備忘録 #1 「称える」について

お久しぶりです、龍教房です。

久々なので、更新できるのか心配になっています。

 

さて、山も山さんさんの「親鸞会を脱会した人(したい人)へ」にて

七高僧親鸞聖人」が「称える」について示しましたので、こちらにも「備忘録」として記しておきます。

(引用元として山も山さんのサイトも挙げておきます)

 

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正信偈』の
 「万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」として「円満徳号勧専称」を勧められている所ですが、
他には『選択集』の
 「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」

と「すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」や

『往生要集 上巻』の
 「もしただ名を聞くものは黒闇処に堕ちず。 一念も名を称するものは、千二百劫の生死の罪を除却す。 帰依することあるものは、無上道において不退転を得。 」とあり、称名について説かれており

『往生礼讃』には、
 「いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。」と「真実の信心」について説かれています。

『観経四帖疏』には、
 「「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。
「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。」と「二河白道譬喩」の解説を

『安楽集』に
 「もし聖を去ることすでに遠ければ、すなはち後のもの名を称するはこれ正にして、前のものはこれ兼なり。 なんの意ぞしかるとならば、まことに衆生、聖を去ること遥遠にして、機解浮浅暗鈍なるによるがゆゑなり。」とあり
『選択集』の
 「おほよそこの『集』(安楽集)のなかに聖道・浄土の二門を立つる意は、聖道を捨てて浄土門に入らしめんがためなり。これにつきて二の由あり。一には大聖(釈尊)を去れること遥遠なるに由る。」とこの『安楽集』の解説をされております。

『論註』 『観経』引用解説箇所
 「善友告げていはく、〈なんぢもし念ずることあたはずは無量寿仏と称すべし〉と。かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿仏〉と称せん。 仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除き、命終の後に金蓮華のなほ日輪のごとくしてその人の前に住するを見、一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生を得ん。」といわれ

『浄土論』には
 「いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。いかんが作願する。心につねに願を作し、一心にもつぱら畢竟じて安楽国土に往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり。{乃至}
 いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとする(「得んとする」を全分他力に立脚され「得たまへる」とせられた)がゆゑなり。」

『十住毘婆沙論』には
 「もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、恭敬心をもつて、執持して名号を称すべしと」といわれ、これは
『和讃』
 「不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」
といわれているところである。

詮ずる所
正信偈』:「円満徳号勧専称」
『選択集』:「正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」
『往生要集 上巻』:「一念も名を称するものは、千二百劫の生死の罪を除却す。 帰依することあるものは、無上道において不退転を得」
『往生礼讃』:「弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし」
『観経四帖疏』:「弥陀の願意に喩ふ」と言われているが、「わが名を称えよ」という弥陀の願意である。
『安楽集』:「後のもの名を称するはこれ正にして、前のものはこれ兼なり。 なんの意ぞしかるとならば、まことに衆生、聖を去ること遥遠にして、機解浮浅暗鈍なるによるがゆゑなり」
 →『安楽集』の解説としての『選択集』
 「一には大聖(釈尊)を去れること遥遠なるに由る」とある。
 「聖道・浄土の二門を立つる意は、聖道を捨てて浄土門に入らしめんがためなり」は『正信偈』の「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」とあるところである。
『論註』 『観経』引用:「なんぢもし念ずることあたはずは無量寿仏と称すべし」
『浄土論』:「いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。いかんが作願する。心につねに願を作し、一心にもつぱら畢竟じて安楽国土に往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり」
『十住毘婆沙論』:「もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、恭敬心をもつて、執持して名号を称すべしと」
 →『十住毘婆沙論』の解説としての『浄土高僧和讃
 「不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」

です。すべて「勧専称、仏名を称する、名を称するもの、名号を称すること、弥陀の願意、名を称するはこれ正にす、無量寿仏と称すべし、如来の名を称する、恭敬心をもつて執持して名号を称すべし」と言われております。

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です。お手元に「真宗聖典」がある方は『信文類』「二河のたとえ」や『観経』、『和讃』、『おつとめ』などでご確認できるかと思います。

 

引用元:「親鸞会を脱会した人(したい人)へ」[ネタバレ]映画「歎異抄をひらく」の感想。令和の親鸞会講師部員の過去・現在・未来の自画像としての作品

https://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2020/06/08/202529

 

なもあみだ、なもあみだ

龍教房