質問トピックより 「龍樹菩薩が、有無の見を悉く摧破されたとあるが、浄土の教えとどのような関係があるのか?」について

id:carsa_j さん)
>龍樹菩薩が、有無の見を悉く摧破されたとありますが、浄土の教えとどのような関係があるのでしょうか?

蓮如上人は『正信偈大意』にて「よく有無の邪見を破して、」としか記してありません。

この箇所は仰られるように「有無の見を悉く摧破された」です。この語句の説明のほうがよろしいかもしれませんね。

まず、
 「有見(うけん)」とは「常見(じょうけん)」ともいわれ、「そのものの実在に固着する考え方」です。
そして、対する
 「無見(むけん)」とは「断見(だんけん)」ともいわれ、「ものごとをすべて「虚無」であるとする考え方」です。

これら、「そのものの実在に固着する考え方」も「ものごとをすべて「虚無」であるとする考え方」も「行者によるおん計らい」でありますから「自力の計らい」とされ、「全分他力」の法義である「南無阿弥陀仏」の前には「ひるがえすべきもの」でしかありません。

親鸞聖人は『お手紙』にて(「有念・無念」とありますが、「心にて想うこと」を指していますので「有見・無見」と窺うこともできます)
 「 選択本願は(聖道の)有念にあらず、(聖道の)無念にあらず。有念はすなはち色形をおもふにつきていふことなり。無念といふは、形をこころにかけず、色をこころにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗法華宗華厳宗三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗成実宗倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。

 浄土宗にまた有念あり、無念あり。有念は散善の義、無念は定善の義なり。

浄土の無念は聖道の無念には似ず、またこの聖道の無念のなかにまた有念あり、よくよくとふべし。

 浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。方便仮門のなかにまた大小・権実の教あり」

とございます。詮ずる所としまして
浄土真宗は大乗のなかの至極であり、選択本願である。
 選択本願は有念(有見)ではなく、無念(無見)でもない。
 しかし、「浄土宗における有念、無念」として「有念は散善の義、無念は定善の義なり」とあるが、
 「行者におきては、非善・非行なり」(『歎異抄』より)とのことより、「翻すべき事柄」である。

 選択本願とは、大聖(源空)の仰せには「義なきをもつて義とす」と言われている。

 これら、
 「行者におきては、非善・非行なり」(『歎異抄』第八より)
 「念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候」(『歎異抄』第十より)

といわれる「自然のうち(阿弥陀さまのお働き)」でありますから「行者におきては、非善・非行なり」や「不回向の行」などともいわれます。

この「選択本願は有念(有見)ではなく、無念(無見)でもない。」といわれることを
正信偈』には、仰られるように「龍樹菩薩が、有無の見を悉く摧破された」と顕わされております。

よくよく尋ねられてください。

なもあみだ、なもあみだ
 龍教房