「普放無量無辺光 … 一切群生蒙光照」

普放無量光 無辺光 無礙光

無対光 光炎王 清浄光

歓喜光 智慧光 不断光

難思光 無称光 超日月光

 

塵刹(じんせつ:「チリの数ほどある世界」 転じて 「数えきれない世界」)を照らし 一切群生を光明のうちに照し蒙る

 

上の光明(こうみょう:お力、お働き、おいわれ)はまとめて「十二光仏」とも言われるお働きである。 親鸞は『弥陀如来名号徳』という書物に1つ1つのおいわれを記されたが、この書物は完全な形では残されていない。

 

親鸞 『弥陀如来名号徳』

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%90%8D%E5%8F%B7%E5%BE%B3

 

親鸞は 『お手紙』 では次のようにいわれている。

 「ひとびとの仰せられて候ふ十二光仏の御ことのやう、書きしるしてくだしまゐらせ候ふ。くはしく書きまゐらせ候ふべきやうも候はず。おろおろ書きしるして候ふ。

 

詮ずるところは、無碍光仏と申しまゐらせ候ふことを本とせさせたまふべく候ふ。無碍光仏は、よろづのもののあさましきわるきことにはさはりなくたすけさせたまはん料に、無碍光仏と申すとしらせたまふべく候ふ。あなかしこ、 あなかしこ。

   十月二十一日           親鸞

  唯信御坊 御返事 」

 

そもそもの『大経』には「十二光のいわれ」について次のように記されている。

『大経』

 「仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。
あるいは仏光ありて、百仏世界あるいは千仏世界を照らす。要を取りてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし。あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとくうたた倍して、乃至、一仏刹土を照らす。

 

このゆゑに無量寿をば、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。

それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし。寿終りてののちに、みな解脱を蒙る。 無量寿仏の光明は顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀したまふに、聞えざることなし。 ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉すること、またまたかくのごとし。もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得て、もろもろの菩薩・声聞・大衆のために、ともに歎誉してその功徳を称せられん。それしかうしてのち、仏道を得るときに至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を歎められんこと、またいまのごとくならん」と。 仏のたまはく、「われ、無量寿仏の光明の威神、巍々殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」と。

」とございます。

 

この中には、「ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉すること、またまたかくのごとし。」とあることより、この「称する」は「称賛する」の意味であるから、17願と見ることができる。

 

17願は「諸仏称名の願」といわれますが、この「称名」は「称名(名をとなえる)」という意味ももちろんあるが、「称名(名をたたえる))」の意味もあります。そのため「諸仏称揚の願」とも呼ばれます。