「法蔵菩薩因位時 … 重誓名声聞十方」

法蔵菩薩因位の時 世自在王仏の所に在りて

諸仏浄土因を覩見せられ (各々の)国土における人天の善悪を見られた。

そして、無上殊勝願を建立せられ 希有大弘誓を(普く)超発せられた。

五劫の間、考えをめぐらし(思惟)て落ち着かれ(摂受) 阿弥陀仏の御誓いと御名を(重誓名声)十方に聞かしむる。

 

→この箇所は、阿弥陀さまが法蔵菩薩の時に、「重誓」を誓われた(無上殊勝願を建立せられた)箇所である。

 

ここに「重誓名声聞十方」(阿弥陀仏の御誓いと御名を(重誓名声)十方に聞かしむる)とあることより、「誓(信心)と名(念仏、称名)」と2つ記されているが、この2つは「同一の南無阿弥陀仏である」といわれている。

 

親鸞の『お手紙』には、

 

 「 誓願・名号同一の事

 

 御文くはしくうけたまはり候ひぬ。さては、この御不審しかるべしともおぼえず候ふ。そのゆゑは、誓願・名号と申してかはりたること候はず。誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。かく申し候ふも、はからひにて候ふなり。ただ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなへつるうへは、なんでふわがはからひをいたすべき。ききわけ、しりわくるなどわづらはしくは仰せられ候ふやらん。これみなひがことにて候ふなり。ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候ふ。往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。あなかしこ、あなか しこ。

 

 ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

 

   五月五日             親鸞

 

 とあり、「誓願・名号と申してかはりたること候はず。誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。」と言われている。

 

 また、「誓:誓願を不思議と信じ:大信」 、 「名:名号を不思議と一念信じとなへつる:大行」 とした場合、「大行をはなれたる大信はなく、大信をはなれたる大行もない」となる。

 

このことから、別の『御手紙』には、

 「四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんなり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

 

 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 いのち候はば、かならずかならずのぼらせたまふべし。

 

   五月二十八日           (花押)

 

  覚信御房 御返事

 

 専信坊、京ちかくなられて候ふこそ、たのもしうおぼえ候へ。また、御こころざしの銭三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候ふ。

 

 [「建長八歳丙辰五月二十八日親鸞聖人御返事」]」

 

 と「信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。」が、

先述した、「誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。

 誓願・名号と申してかはりたること候はず。」に意を同じくしている。

 

 また、「往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。」からは、

自然法爾の事』という『御手紙』があげられるだろうし、『歎異抄』第8もあげられるだろう。

 「自然法の事

 

 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。

 

 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 

 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

 

   正嘉二年十二月十四日               愚禿親鸞八十六歳」

 

歎異抄』第八

 「一 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。」