「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無せよ」

 

この一行 二句が「真宗」を顕しているのだが、一瞥したものからすると

「なぜ、これが真宗を顕しているのか」と思うのも無理はない。

 

これについて一つ記していきたいと思う。

まず、ここにある「無量寿如来」及び「不可思議光如来」とは「阿弥陀さま」の別号である。

 

無量寿」とはサンスクリット語「アミダーユス」の意訳で、「量り無きいのち」と訳されることもある。今でこそ「西方浄土」の教えが広まっており「阿弥陀さま」と説明してすぐに関連づけられるが、「西方浄土」思想が広まる前までは、「無量寿院」として、阿弥陀さまを安置していた歴史がある。その流れから、大変私ごととはなるが、「無量寿院」という院号や、「無量寿寺」という寺号がある。(近所にも「無量寺町」という町名がある

 

「不可思議光」とは「たとえようも無いおはたらき」と言う意味で、同じ意味では「無称光」などもある。こちらの場合は「えようも明(おちから)」と読み解くことができる。

 

「不可思議光」については曇鸞大師が力を尽くされており、

浄土論註』には

 

「問ひていはく、天親菩薩の回向の章のなかに、「普共諸衆生 往生安楽国」といへるは、これはなんらの衆生とともにと指すや。

答へていはく、王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、「仏、阿難に告げたまはく、〈十方恒河沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを称嘆したまふ。 諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、すなはち一念に至るまで心を至して回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て、不退転に 住せん。ただ五逆と誹謗正法とを除く〉」と。これを案じていふに、一切の外道・凡夫人、みな往生を得ん。

また『観無量寿経』のごときは九品の往生あり。 「下下品の生とは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごとき愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕して、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごとき愚人、命終の時に臨みて、善知識、種々に安慰して、ために妙法を説き教へて念仏せしむるに遇はん。 かの人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げていはく、〈なんぢもし念ずることあたはずは無量寿仏と称すべし〉と。かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿仏〉と称せん。 仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除き、命終の後に金蓮華のなほ日輪のごとくしてその人の前に住するを見、一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生を得ん。」 と顕され、

「善友告げていはく、〈なんぢもし念ずることあたはずは無量寿仏と称すべし〉と。かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿仏〉と称せん。 仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除き、命終の後に金蓮華のなほ日輪のごとくしてその人の前に住するを見、」 より、

 

「〈南無無量寿仏〉と称する教え」であることがわかる。

 

なお、「南無」はサンスクリット語「ナマス」の音写であり、「帰命」は「南無」の意訳である。

『尊号真像銘文』には、

「「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。」とも示されている。